あの日の帰路で見たもの― 東日本大震災と,お互いを思いやる心 ―
2011年3月11日。
あの東日本大震災が発生したとき,ワタシは秋田県能代市の火力発電所に単身赴任していました。
多くの人と違い,ワタシ自身はあの大きな揺れを体験していません。というのも,地震が発生したその瞬間,ワタシは高速道路を運転していたからです。
その日は午後休暇を取り,仙台の自宅へ向かって車を走らせていました。秋田市を過ぎたあたりだったと思います。突然,高速道路の電光掲示板に
「地震発生 高速を降りてください」
という表示が出ました。そして秋田県の協和ICで高速道路を降ろされたのです。
「一体,何が起きたのだろう?」
そう思って車のラジオをつけると,「宮城県で震度7の大地震が発生」と報じています。その瞬間,手足がガクガクと震え出し,とても運転を続けられる状態ではなくなりました。
車を路肩に止め,「落ち着け,落ち着け」と自分に言い聞かせます。10分ほどしてようやく気持ちが落ち着いてきました。
まず最初にしたのは,仙台にいる妻への安否確認です。
大きな災害が発生すると,携帯電話がつながらなくなるのはよくあることです。しかし幸いなことに,当時ワタシも妻もPHSを使っていました。そのためすぐに電話がつながり,妻も愛犬も無事であること,そして双方の家族も皆無事であることが確認できました。
「無事で良かった!」
それを聞いたときの安堵感は,今でも忘れることができません。
しかし同時に,「すぐに能代へ戻らなければならない」とも思いました。発電所員として,一刻も早く職場へ戻り,災害対応に当たらなければならないからです。
当時,山形県と新潟県を除く東北電力の供給エリアは,ほぼ全域が停電していました。信号機もすべて停止し,ところどころの交差点では警察官が交通整理をしていましたが,道路は大渋滞です。
ワタシが戻らなければならないのは,日本海側の大動脈である国道7号線です。「いったい何時間かかるのだろう」と不安になりました。
ところが,不思議なことに,道路は渋滞しながらも確実に流れていました。
大きな交差点では,ある程度車が進むと,先頭の車が自然に止まり,交差する道路の車に道を譲ります。そしてしばらくすると,今度は反対側の車が止まり,こちら側に道を譲る。信号機がなくても,お互いに譲り合いながら交通が保たれていたのです。
もちろん信号機のように正確に制御しているわけではないので渋滞は発生します。しかしそれでも交通はきちんと流れていました。
その光景を見ながら,ワタシは「日本人の良識とはこういうものなのかもしれない」と感じました。非常時であっても,互いに思いやり,譲り合う。その姿に,日本人の素晴らしさを見た気がしました。
一方で,ラジオからは次々と被害の情報が流れてきます。「とてつもない災害が起きてしまった」という現実を,徐々に実感することになりました。
特に胸が締めつけられる思いがしたのは,仙台の海岸のニュースでした。高校時代,トレーニングで何度も走ったあの海岸に「300人以上の遺体が打ち上げられている」という報道を聞いたときには,言葉にならない悲しさが込み上げてきました。
信号も街灯も,店の明かりもすべて消えた真っ暗な道を走り続け,能代に戻ったのは夜10時を過ぎた頃でした。発電所も停止しており,周囲一帯が停電していたため,辺りは完全な闇でした。
そのとき,ふと空を見上げました。
すると,これまで見たことがないほど美しい星空が広がっていました。街の明かりがすべて消えていたからでしょう。その星の息を呑むような美しさはは,今でも忘れることができません。
ほどなく,非常用発電機によって発電所の事務室だけは電気が復旧し,災害対応が始まりました。とはいえ,ワタシのような事務職にできることは,技術系社員の仕事を支えることくらいです。本店の非常対策本部と連絡を取りながら必要な対応を続ける,慌ただしくも必死で懸命な日々がそこから始まりました。
あの日の帰路で見た,日本人の譲り合いの姿。そして闇夜に輝いていた満天の星。
東日本大震災から年月が過ぎましたが,あの日の記憶は今もワタシの中に鮮明に残っています。あの日に感じた思いを忘れず,地域で仕事をする一人として,これからも社会の役に立てるよう努めていきたいと思います。

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