忘れられない震災の一日と,あの課長の言葉
今年も,宮城県民にとって,そして東北の人にとって特別な日,3月11日がやってきました。
「あの日」から15年が経とうとしていますが,あの大変で,悲しくて,必死だった時間の記憶は,いまでも心の底から消えていきません。本日のブログは、震災のときにワタシが経験した、忘れることのできない出来事を振り返るものです。
あの日,ワタシは秋田県能代市の火力発電所に勤務していました。
金曜日の午後,休暇を取って車で仙台に戻る途中で地震が起き,高速道路は通行止め,途中のインターチェンジで降ろされ,混乱する街を抜けて能代に引き返しました。そこから,電力会社の社員として長く苦しい復旧の日々が始まりました。
能代の火力発電所も緊急停止しましたが,幸い大きな被害はなく,数日後には発電を再開できました。
一方で,太平洋側の火力発電所の多くは津波で壊滅的な被害を受け,復旧支援も急務となりました。日本中から石油製品が消え,ガソリンスタンドには長蛇の列。軽油も払底し,建設会社や運送会社からは「重機を動かす燃料がない」という悲鳴が上がっていました。
そんな中で,火力発電所には発電所の起動用燃料(補助燃料)として,多くの軽油が備蓄されていました。
「ここには大量にあるのに,現場では足りていない。」
さらに,青森県の火力発電所からは,「再起動に必要な軽油が足りない」という連絡も入っていました。
しかし当時,発電所で使う軽油には「軽油引取税」が免除されており,その免税軽油を重機や別の発電所に回すことは,法律上は認められていませんでした。免税の許可を出しているのも秋田県で,「発電所で使う」からといって県をまたいで軽油を青森県に持ち出すこともできません。
「非常時だから」と勝手にルールを破るわけにはいかない。けれど,このまま何もしないわけにもいかない。そこで,「今回に限って特例扱いにしてほしい」と秋田県にお願いに行くことになりました。
その役目を任されたのがワタシで,部下を一人連れて能代市内にある県の出先機関に向かいました。
若い職員に事情を説明し書類を渡しましたが,返ってきたのは「前例がありません」「検討に時間がかかります」という言葉でした。どれくらいかかるのかと尋ねると,「最低でも一週間,場合によっては一か月」という返答。そんな答えを持って発電所には戻れません。必死に食い下がりましたが,状況は変わりませんでした。
「本当に困ったな」と思ったその時,奥から低い怒鳴り声が聞こえました。
「おい,お前,今,太平洋側がどういう状況なのかわかってるのか。」
「その書類,ちょっと持って来い」
声の主は課長でした。書類にさっと目を通すと,ワタシたちの前に来て,こう言ってくれました。
「大変失礼しました。ご事情はよくわかりました。少しだけ時間をください。ただ,この話を『ダメ』という話には絶対にしませんから,安心してください。」
その一言を聞いた瞬間,体の力が抜けました。
庁舎を出て階段を降りる途中で,緊張の糸が切れたのか,涙がボロボロとこぼれてきました。横を見ると,部下も同じように泣いていました。
発電所に戻ると,ほどなく先ほどの課長から電話が入りました。「秋田県から青森県への軽油の移動を認める」「使用量を報告し,納税をすることを条件に重機燃料への転用も認める」という連絡でした。
数日後,能代火力のタンクからタンクローリーに軽油が積み込まれ,北へ向かって走っていきました。あのタンクローリーが八戸での再起動の一助になったのだと思うと,「少しはお役に立てたかな?」という気持ちになります。
「この話を『ダメ』という話には絶対にしませんから,安心してください。」
震災のとき,電力会社の社員として「不眠不休」で働いた日々の中で,ワタシの心に最も強く残っているのは,この課長の言葉です。
法律や制度はたしかに壁でしたが,その壁のなかで「どうすれば動かせるか」を考え,責任を引き受けてくれた,ひとりの公務員の姿でした。
いま,ワタシは行政書士として,お客さまに代わって自治体の窓口に行き,申請や相談,お願いごとをします。
親切に,そして血の通った対応をしてくださる職員の方に出会うたび,あの課長を思い出します。そして,こちらの立場としてはこう心に決めています。
制度の枠内で,できることを最後まで探すこと。
書類の向こう側にいる人の事情を,きちんと想像すること。
震災の現場で,「ダメで終わらせない」と言ってくれた人がいたように,ワタシもまた,いま目の前にいる依頼者のために,同じ言葉を胸の中で繰り返しています。
この相談を「仕方がない」で終わらせないために,行政書士としてワタシにできることは何か――あの日、能代の空の下で感じた「何としてでも届ける」という重みを忘れることはありません。 その答えを探すために、今日も一枚の書類に向き合っています。

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