修学旅行と教育の境界線を考える
今回の辺野古で起きた事故は,本当に残念な出来事です。
おそらく高校生活で最も印象深い思い出の一つとなるはずだった修学旅行の最中に,若い命が失われてしまったこと,そしてご家族の無念を思うと,当事者ではないワタシであっても胸が張り裂けるような思いになります。
本稿でワタシが考えたいのは,この事故そのものの話ではありません。ワタシが問題提起したいのは,判断力や思考力がまだ十分に成熟しているとは言い難い高校生に対して,一定の政治的・社会的主張を,一方向的に伝えるような教育が,果たして妥当なのかという点です。
もちろん,日本国憲法は第19条で思想及び良心の自由を,第21条で表現の自由を保障しています。しかし,それはあくまで個人の自由の保障であって,公教育の場において,特定の価値観や主張をまだ未成年である高校生に対して一方的に提示することの妥当性を無条件に裏付けるものではないとワタシは考えます。教育とは,本来,多様な視点に触れ,自ら考える力を養う営みであるべきです。その意味において,今回の背景にあったとされる平和教育については,主張の内容の是非とは別に,教育手法として慎重さを欠いていたのではないかという疑問を抱かざるを得ません。
さらに言えば,この機会に修学旅行そのものの意義についても考えてみる必要があるのではないでしょうか。
かつて修学旅行は,個人で自由に旅行をすることが難しかった時代に,学校が引率して生徒に貴重な体験を提供するという役割を担っていました。しかし,現在は交通手段も発達し,旅行は特別なものではなくなっています。家庭環境や価値観も多様化し,高校生ともなれば趣味や関心も人それぞれです。そのような中で,全員一律に同じ場所へ行き,同じ体験を共有することに,どれほどの教育的意義があるのかは,改めて検討されるべき時期に来ているのではないでしょうか。
また,現在は学校週5日制が定着し,登校日数自体が以前より限られています。その貴重な時間を修学旅行に充てるのであれば,それに見合う教育的効果が求められるはずです。場合によっては,その日数をより実践的な学習や,将来に資する教育活動に振り向けるという選択肢も,十分に検討に値するのではないかとワタシは思います。
ちなみに,ワタシが高校生だった40年以上前,ワタシの通っていた高校には修学旅行がありませんでした。しかし,それを残念に感じたことは一度もありませんし,それでも高校生活は十分に充実し,楽しいものでした。思い出は,必ずしも特定の行事によってのみ形作られるものではないのだと,今になって改めて感じています。
今回の痛ましい事故をきっかけに,教育の在り方や学校行事の意味について,少し立ち止まって考えてみる必要があるのではないでしょうか。
そして,もし修学旅行や校外学習において特定の主張や活動を組み込むのであれば,その内容や方法については,保護者への説明や同意の在り方も含め,より慎重な検討が求められるはずです。
行政書士という立場からあえて申し上げれば,教育の現場であっても「説明責任」と「合意形成」は欠かせません。契約書であれば条文一つひとつに意味があるように,教育の一場面にもまた,その根拠と妥当性が問われるべきです。
今回の出来事は,単なる不幸な事故として終わらせるのではなく,「何を教えるのか」だけでなく「どのように教えるのか」という点について,社会全体で再確認する契機とすべきではないか,ワタシはそのように考えています。

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