「努力できる」ということは「素質」か?
ワタシが子供だった頃,そして学生時代,さらには若いサラリーマン時代まで,「努力は美徳」「頑張ることが大事」と繰り返し言われて育ちました。運動も勉強も,つらいことを我慢して乗り越えるのが当たり前。努力とは,そもそも「つらいもの」であり,成果のためには「頑張るのが当然」——そんな価値観が染みついていました。
思い返せば,ワタシは若い頃から地道な努力が苦手でした。クラブ活動でも勉強でも,「ギリギリでパスできればいいや」といった甘い考えで取り組んでいたため,目立った成果を上げることはできませんでした。今になって「もう少し頑張っておけばよかった」と思うこともありますが,それは大人になった今だからこそ持てる視点であり,当時の自分にそれを求めるのは無理だと思います。
高校時代,ワタシは陸上競技部で長距離を走っていました。同じく長距離を走っていた同級生に「もう少し頑張ったら」と言ったことがあります。彼はわりと練習がいい加減で,あまり強くなかったので,つい口にしてしまったのですが,返ってきた言葉に驚かされました。
「オレはオマエみたいに頑張れない。努力できるかどうかも才能だ。だからオレが弱いのは努力できる素質がないからで,オレが悪いんじゃない」と。
当時は「コイツ,何言ってるんだ?」とその言い分に呆れて言葉を失いましたが,60歳を過ぎた今,ふとその言葉を思い出すと「なるほど,一理あるな」と感じることがあります。努力とは,成果が保証されない中で成果が出ることを信じて地道に続ける行為です。その苦しみに耐えられるかどうかは,意志の強さだけでなく,「頑張ることができる」という能力というか素質にも左右されるのではないか——そんなふうに感じるようになりました。
もちろん,努力できる人は素晴らしいし,そうありたいと願うのは自然なことです。でも,「努力できない人」を一括りにして「ダメな人」と決めつけるのは,少し乱暴すぎる気もします。ワタシ自身,若い頃は言い訳をして,努力を怠り,諦めてきたことがたくさんあります。若さとは,そういう未熟さを含んだものなのだと思います。
ワタシは,50歳を過ぎてから,人生を楽しく生きる目標として,「毎年ひとつ,新しいことを始める」ことにしました。そして,この挑戦を始めたら,思いがけないことが起こりました。つまり,新しいことに挑戦することが,苦しみではなく楽しみになったのです。
そんなワタシの挑戦のひとつが,資格試験への挑戦でした。58歳で行政書士試験,59歳で海事代理士試験に合格しました。周囲からは「その年齢で努力できるなんてすごい」と言っていただきました。60歳近かったワタシが,これまで全く無縁だった法律の資格に挑戦したわけですから,その過程はシンプルに「楽しい」だけの「きれい事」では済みませんでした。学習の過程では,「覚えられない」「法律の考え方がわからない」といった壁にぶつかり,そのつらさに負け,一時的に勉強を投げ出したこともありました。
それでも,毎日長時間勉強すること,それ自体がつらいと思ったことはありませんでした。受験勉強の過程には,苦しいことはもちろんありましたが,それ以上に,新しい知識を吸収することの新鮮さ,資格取得後に自分に広がる可能性を想像することで,ワクワクした気持ちになれ,最後まで頑張り通すことができたのだと思います。
今では行政書士,海事代理士として仕事をする中で,「やりたいこと」が次々と湧いてきます。それを実現するためには,新たなスキルを身につけるため,勉強しなければなりません。でも,それが楽しくて仕方がないのです。新たな勉強をすることは,確かに大変なことはありますが,それ以上のワクワク感,そして困難を乗り越えたときの達成感があるから頑張れるのです。いわば,頭の中に「可能性の好循環」が生まれたような感覚があります。
60歳を超えた今,若いときのような無理はできませんが,それでも,「新しいことを始めるのに年齢は関係ない」と思います。「生涯現役」を目指して,これからも新しいことに挑戦し続けたいと思っています。

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