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社会的地位にふさわしい「人格」とは

ワタシが最近,社会の動きを見ながら感じていることの一つに,「地位にふさわしくない人が,その地位にしがみつくことの醜さ」があります。最近では,自らの責任を問われても,その座を離れようとしない人たちの姿がメディアを賑わせています。例えば,選挙で繰り返し大敗しながら党総裁や総理大臣の座にとどまり続ける政治家,あるいは学歴詐称が明るみに出ても不自然な弁解を重ね,市長の椅子にしがみつく政治家などです。

個別の人物についてワタシがどう思うかはさておき,どうして社会の要職にある人物を,こうした場合に強制的に排除できないのか――この制度のもどかしさについて,今回は考えてみたいと思います。

本来,首相や市長といった役職は,日本国憲法や地方自治法などの法律に基づき,「社会的地位にふさわしい優れた人格と資質を持つ者」が選ばれることを前提に設計されています。つまり,選挙によって厳正な選抜を受け,当然に人格的にも高潔であることが求められているのです。そのため,いざ何か不祥事や矛盾が表面化した場合,「自らが進退を判断し身を引く」ことが当然であり,わざわざ強制排除の制度を細かく想定していないのでしょう。

確かに,制度上は不信任決議やリコールなど,やむを得ない場合に「最後の切り札」となる制度は用意されています。しかし実際の運用面では,そのハードルはとても高く,本人がその地位にしがみつく姿勢を見せた場合には,周囲がいくら苦言を呈しても,それを強制的に排除すること非常に困難です。

なぜそんな制度設計になっているのか。それは,こうした手段が,いわば民主主義の「伝家の宝刀」であり,本当に最後の手段として用いられるべきものだからです。通常であれば,任にふさわしくないと自覚した時点で,自ら身を引く――それが期待されている姿なのだと思います。つまり,「人格高潔であること」が大前提として制度が成り立っているのです。居直りや無責任な態度で地位にしがみつく人間が現れると,その想定そのものが大きく揺らいでしまうことになります。

ワタシはニュースで,こうした事態が続くたび,なんともいえない不快さや無力感を覚えます。地位を預かる者の責任というものを,うまく果たせないなら潔く退いて次の人物に託す。ワタシたちが安心して社会を託せる仕組みには,本来それが当然であるべきなのではないでしょうか。

行政書士という自分の仕事の範囲は非常に小さなものですが,ワタシもまた,自分の立場にふさわしい所作と言動を意識し,信頼に応え続けねばと改めて思う毎日です。
早く,このような社会の混迷が収束し,誠実で清新な新しいリーダーが誕生してほしいと願ってやみません。

本記事は,あいはら行政書士事務所の特定行政書士・相原一善の個人的見解であり,学術的な日本国憲法や地方自治法の解釈に厳密に基づいているわけではありません。あくまで一市民としての思いとご理解下さい。

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