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Fラン大学は必要か?(後編)

(前編から続く)

一方で,これだけ大学進学率が上がれば,昔なら大学生にふさわしくないと思われていたような人も「みんなが大学に行くなら,オレも大学に行きたい」と思う気持ちも理解できます。また,学力云々の問題ではなく、大学には、同じ世代の若者が集う「居場所」という役割もあるかもしれません。大学の大衆化が進み,そういう学生が集まる大学なら,授業料に見合うよう,そのレベルの学生に役立つ教育を提供するのは,あたりまえのこととも言えます。

学力が高いか低いかに関わらず,日本国民には誰でも各自の能力に応じた教育を受ける自由があります。大学を卒業した学生は, やがて社会人になり,働いて税金を納めてくれるようになります。行きたい大学が存在するのであれば,卒業後にそれぞれの望む進路に進めるのかは別として,経済的に許されるのであれば,大学に行く自由はあると思います。先ほども書きましたが,大学に支給されている補助金は国民一人あたり3000円にも満たない金額であり(3000億円は大金だという議論はもちろんあります)。その中から,いわゆるFラン大学に支給される補助金など本当に「ごくわずか」であると思われます。その程度の金額なら,財政規律を優先する以前に「大学に行きたい」という国民のニーズを尊重してもよいのではないかと思います。

こういうことを書くと,有識者の中には「ヨーロッパの大学にはこのような事例はない」とおっしゃる方もいらっしゃいます。確かに,ヨーロッパは昔から階級社会で,大学に進学するのは一部の階層だけで,あとは職人になるなどの文化がありました。職人は大学を出ていなくても尊敬される存在でした。しかし,明治維新以降,明確な身分制度がなく均質な社会を形成してきた日本の教育や文化の成り立ちは,ヨーロッパとは大きく異なるのです。

一方,日本はどのようなレベルの大学であっても,大学を卒業していれば制度上は,「大卒」として一律に扱う文化があります。ただ,制度上は同じ「大卒」であっても,社会や労働市場がすべての大卒者を一律に扱っているかというと話は別です。最近では「学歴フィルタ」という言葉も聞かれるようになりました。したがって,法令上,制度上の大卒と,社会が「大卒」に相応しいと認識するレベルには大きな違いがあることは明らかです。だから,日本の制度上は大学であっても,社会や労働市場が大卒としての価値を認めない大学は次第に淘汰されてゆくと思います。我々は,個々の大学のレベルや価値を論ずるのではなく,社会の評価や労働市場にその判断を任せればよいのだと思います。

ワタシはFラン大学の社会的有用性について論ずる立場にはありませんが,昔と比べて進学率が上がり,誰でも大学に行ける時代になった今,「Fラン大学なんて出ても無駄かもしれないけど,経済的余裕があり、行きたいと希望する人がいるなら、それも意味があるんじゃないか」と思います。また,大学生まで勉強と縁がなかった人でも,ほんの小さなきっかけで学問に目覚め,「大化け」する人が一人でも生まれるなら,Fラン大学にも意味があるのではないかとも思います。

このように,Fラン大学の存在意義は人それぞれで,一概に「必要か不要か」と決めつけることはできないのではないでしょうか。学びたい気持ちを持つ人に,相応の学びの場が用意されていることは,大切なことだと思います。

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