「感動を与える」という言葉の持つ違和感
一昨日まで,宮城県では高校総体の陸上競技が開催されていました。
ワタシは,母校の陸上競技部の後援会のお手伝いをしていることもあり,仕事の合間を縫って競技場に駆けつけ,母校の選手に声援を送りました。
ワタシの代より格段に強くなった母校の陸上競技部は,今年も多くの種目で入賞し,見事に東北大会への出場を決めてくれました。特に,大会の花形とも言える4×400メートルリレーでは,男女そろって決勝進出を果たし,力強い走りで,共に東北大会の切符をつかみ取りました。
ワタシも我を忘れ,無我夢中で応援しました。優勝こそ逃したものの,後輩たちの一生懸命な走りに心を打たれ,ゴールした選手たちには惜しみない拍手を送りました。自分が応援する選手の全力の走りには,本当に心を揺さぶられるものがあります。
こうした場面に立ち会って改めて感じたのですが,最近のスポーツイベントなどでよく耳にする「感動を与える」という言葉には,どうもワタシは違和感を覚えます。
オリンピックや世界大会などでメダルを取るようなトップアスリートが言うなら,まだ理解できなくもありません。しかし,高校生の,たいした実績も上げていないような選手までが,さも当然のように「感動を与える」と口にするのを聞くと,「オマエみたいな小僧に『感動』なんぞ恵んでもらわんでもいいわ」と,つい憎まれ口を叩きたくなってしまうのです。
感動とは,本来,勝ちたい,良い記録を出したいという純粋な思いで一生懸命に頑張る姿に,周囲が自然と感じるものであって,競技者自身が自分から相手に“与える”ものではないとワタシは思います。
上から目線のような意識でプレーをしても,人の心は動かされません。ただただひたむきに,勝利に向かって遮二無二に突き進むアスリートの姿にこそ,ワタシたちは感動するのだと思います。今回の高校総体での後輩たちの走りには,まさにそのような“心からの頑張り”を感じました。そういうものです。
この「感動を与える」という言葉に対する違和感は,実はワタシの仕事に対する考え方にも通じています。
最近,よく耳にする表現に「感謝してもらう」という言い回しがあります。これも,少し引っかかるものがあります。
行政書士という仕事は,基本的にはお客さまの「困っていること」や「必要としていること」があるからこそ成り立ちます。書類の作成や手続きの代理といった業務を通じて,お客さまの悩みや課題を解決し,その対価として報酬をいただくのがこの仕事の本質です。
だからこそ,ワタシは「感謝してもらう」ことを目的にするのではなく,お客さまに「喜んでいただく」ことを大切にしたいと思っています。
お客さまの抱えていた問題が解決され,表情がホッと緩んだ瞬間に立ち会えたとき,ワタシ自身も本当にうれしくなります。そして願わくば,お客さまが想像していた以上の成果を出し,「お願いして良かった」と心から思っていただけるような仕事を目指したいのです。
競技者が無心で走る姿に人は感動し,そこに余計な見返りや思惑がないからこそ,心を動かされるように。 ワタシも行政書士として,相手に「何かを与える」のではなく,ただ誠実に,全力で,目の前のお客さまに向き合うことで,少しでも「喜んでいただける」存在でありたい。そんな気持ちを改めて強く感じた一日でした。

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