霞ヶ関での思い出
ワタシは,電力会社のサラリーマンとして35年働いてきました。その35年間のほとんどは,燃料部というところで石油,石炭,LNGといった化石燃料の調達,管理業務に従事していましたが,2年程,霞ヶ関の中央官庁で仕事をするという貴重な経験をしました。時は30年前,画期的なパソコンのOS「 ウインドウズ95」が発売され,世の中が沸いていた1995年の末,「もうすぐ12月」という頃に,突然部長に呼ばれました。「何だろう?」と思い部長室に入ると,「相原君,12月1日から経済企画庁(当時)に出向してもらうことになったから。」と言われたのでした。ワタシは当時,世界のエネルギー動向などについて、研究機関で勉強したいと考え,エネルギー系のシンクタンクへの出向を希望していたのですが,まさか,国の機関に出向するなんて,夢想だにしていません。狐につままれたような思いで自席に戻ったのを今でもはっきりと覚えています。慌ただしく引っ越しを済ませ,12月1日朝,霞ヶ関に向かい,「委嘱調査員を命ず」という辞令をいただきました。
意外と知られていない話なのですが,霞ヶ関の中央官庁には,国家公務員以外にも都道府県や市町村といった地方自治体の職員や,ワタシのような,民間企業出身者も出向者としてたくさん働いていました。民間からの出向者については,当時の経済企画庁では「委嘱調査員」と呼ばれていました。民間からの出向者は主にデータの整理・分析などの調査業務を担当していました(経済企画庁では耳にしたことがありませんが,省庁によっては「傭兵」なんていう物騒な名前で呼ばれていたようです)。また,民間からの出向者は天下りの逆だということで,密かに「天上がり」ともよばれていました。
ワタシが働くことになったのは「国民生活局国民生活調査課」という職場でした。この職場で一番大きな仕事は,国民生活白書を作ること。そのほか,いくつかの大きな調査を行っていました。日々のお仕事は与えられた課題についての調査です。週1回,半日をかけて打ち合わせがあります。ここで,課員がそれぞれ課長の指示で調べた1週間の成果を発表し,課員で議論し、課長の講評をいただき,また,次の1週間の課題をもらう。あたかも大学時代のゼミで、教授と学生がやりとりするような打ち合わせが毎週続き,3ヶ月~半年くらいをかけて「国民生活白書」などの成果物を仕上げてゆきます。もちろんワタシも例外なく同じことをやらされました。この過程で,多くのグラフや表,文章を書くことになり,こういうことに慣れていないワタシは「エラいところに来た」と思ったものでした。当時もインターネットはあるにはありましたが,今の充実ぶりとは比べるべくもありません。主な資料は資料室や他省庁の図書館などを探して調べます。1年目の白書で,ワタシは「教育」について調査を行ったので,文部科学省の図書館には,あたかもそこの職員と間違えられるくらいに通いました。一緒に仕事をした方々も,錚々たるメンバーでした。
当時,上司としてお世話になった国民生活調査課長原田泰(はらだゆたか)さんは,在職中から鋭い視点で多数の著書を執筆され、経済評論家として活躍され,後に日本銀行政策委員会審議委員も務められたスゴイ方です。原田さんには仕事を通じても,夜の部の懇親会を通じても(みんなそろって飲みに行く,仲の良い職場でもありました)多くの貴重なお話をお聞かせいただき,モノを見る視点についても文章の書き方についても,本当に勉強させていただきました。その他にも,後に国会議員になられた方、ペット保険のベンチャー企業を立ち上げ,後に東証1部に上場する大企業に育て上げた方もおられました。そういうスゴイ人たちと、非常に充実した、宝物のような2年間を過ごすことができました。
一方で労働時間は非常に長く、深夜の帰宅が常態化していました(めちゃくちゃブラックでした)。でも,当時は,給料も安かったので,体が疲れることよりも,残業手当がたくさんもらえることがうれしく,一生懸命働きました。当時の霞ヶ関は「深夜残業当たり前」の世界で、財務省脇には,深夜帰宅の職員目当ての個人タクシーがずらりと並んでいました。
このような,とても充実した,でもハードな霞ヶ関での2年間はあっという間に過ぎてゆきました。霞ヶ関で,中央官庁の仕事の仕組みを学べたのはもちろん非常に役に立ったのですが,それ以上に,身についたのは「紙を作る(=文書を作る)」能力でした。ワタシは,もともと,議事録等の書類を作ることが苦手だったのですが,経企庁での2年間で,大量の文書を作る作業を繰り返したことから,書類を作る早さが飛躍的に向上したと思います。もちろん,高尚な名文が書けるわけではありませんが,一定の時間に,一定の品質の文書を、正確に作る能力はこの時に身につき,現在に至るまで、ワタシの大きな武器になっています。


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